わからないもの
先日SNSで、宮沢賢治の「やまなし」という童話作品について話題になっているのを見かけました。小学校の国語の教科書にも載っている小品です。
『クラムボンはわらったよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
という繰り返し出てくるフレーズが印象的な作品ですが、この「クラムボン」とは一体何なのか、文中に説明はなく、作者である宮沢賢治もその解説をしなかったと言われています。そのため、この作品が発表されて100年近く経った現在においても、その正体については不明のままで、小学校の教室を離れても、様々な議論が繰り広げられているようです。
クラムボンの正体として説が挙がっているのは、アメンボ、小生物、蟹の吐く泡、光、蟹の母親などさまざまです。さらには、「蟹語であるから理解できない」、「解釈してはいけない」といった意見や、物理学の専門家の方による「水中から水面を見上げると、外界の様子は、光線の屈折により、丸く見える」のでその円形像だとする説などもあるようです。
SNSでも、「やまなし」の話題に対して多くの人がご自身の小学生時代を思い出して、「授業で習った」「授業中にクラスで意見を出し合った」といったコメントをされていて、小学校卒業から何年も経っていても「クラムボン」のことを憶えている人は多いのだなぁと興味深く感じました。これは、「クラムボン」「かぷかぷ」といった語感のおもしろさや、何より作品自体のすばらしさはもちろんなのですが、正解がわからないからこそ、各自が自由に解釈することができて、加えて、みんなでその解釈について分かち合えるということが、とても楽しくおもしろい学びの体験として記憶されているからではないかなぁと思いました。正解にこだわらず、思い思いに想像を広げて、お互いの意見や考えを聞き合うというのは、とても豊かな体験であると思います。
また、こころの健康という面においても、わからないものをわからないものとして一時的にでも置いておけること、ひいては、わからないことを楽しめることは、とても大事なことであると思われます。そうすることで、こころの中に少しゆとりが生まれて、こころの中の息苦しさや窮屈さのようなものと少し距離を取れるようになるのではないでしょうか。
ところで、「クラムボン」が印象的過ぎて、「クラムボン」が中心の作品のように思えていた「やまなし」ですが、改めて読み返してみると、「クラムボン」は実は作品の中のごく一部分に登場するのであって、全体としては、蟹の兄弟を主人公として、谷川とそこに住む生き物たちの初夏と初冬の一場面を描いた作品でした。冒頭にある「小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈です。」という文章の通り、全体を通して幻想的で、透明感のある文章は大変魅力的で、物語の世界に引き込まれます。少ない情報を手掛かりに、「クラムボンとは?」、そもそも「やまなしとは?」と推理したり、議論したりするのも楽しみ方のひとつであると思いますが、ただ文章を味わいながら、宮沢賢治の描く「幻燈」の世界に身を委ねてみるのもよいのかもしれません。