富士山
「富士山」を見つけるとうれしくなるのはなぜでしょう。
あっ、富士山だ!と足が止まって写真を撮りたくなる、展望台に上ると富士山見えるかなと探したくなる、山登りの最中、彼方向こうに小さくでも富士山が見えるとほっとする、このような気持ちは一体どこからくるのでしょうか。
こんなことを考えたのは、富士山が見えなくなることを理由に完成間近で解体することになったマンションのニュースが報じられてからです。
現在の富士山の姿ができたのは1万年も前になるそうです。
あらゆるものごとが目まぐるしく変化していく世の中で、ずっと変わらぬ姿で聳え立っている富士山に、私たちは安心感をもらっているのかもしれません。
ここで、ユングの「集合的無意識」という言葉が浮かんできました。
ユングは、無意識の中には個人的無意識と集合的無意識というふたつの層があると考えました。
集合的無意識とは、個人的な体験から獲得した無意識とは違い、生れながらに備わっているもので、人類に共通した普遍的なテーマだと言います。
私たちが、神話や物語に魅了されたり、外国映画を観て文化も習慣も違うのに共感したり、世代が離れている人の話が心に沁みたりするのは、同じ人間として共通する土台のようなものがこころの奥深くにあるからなのでしょう。
そう考えると、富士山は日本人に共通する集合的無意識と言うこともできると思います。
国立の街は、国立駅の南側から3つの通りが放射線状に伸びています。
正面を谷保方面に真っ直ぐ伸びているのが「大学通り」、南東方面には、朝日が昇る「旭通り」、そして、南西方面には、正面に富士山が見える「富士見通り」があります。
大正末期、街をつくろうとした時に、そこまで計算して道を通したそうです。
真冬の晴れた朝、空気が澄んで雲ひとつない真っ青な空に見える富士見通りからの富士山は迫力満点です。
先人が残してくれたこの景色、この先もなくならないで欲しいと思います。